サイトへ戻る

2.午後六時の相対的必然性

どうやら不運は続くらしい。

「うそだろ……」

昨日から姉ちゃんと二人で暮らし始めたアパートの前まで辿り着いて、俺は鍵を持っていな
いことに気がついた。姉ちゃんに預けたままだったのだ。

嘆くのを通り越して、半ば諦めるようにアパートを見上げた。

俺と姉ちゃんが住む部屋は七階。窓に明かりは見えず、姉ちゃんが仕事から帰っていないこ
とは明白だ。

アパートから大学までは地下鉄を乗り継いで二駅、徒歩を含めても二十分以内には到着でき
る。大体の新入生が、路線をまたいで離れた学生街か、狭い学生寮に住んでいる中、俺は恵まれた環境だと思う。

アパートと言うより、最近リノベーションしたばかりのここは、デザイナーズマンションと呼んだ方が近い。真っ白い外観が、遠くからでも美しく目立った。小さめのリビング・キッチン・風呂・トイレに加えて、個室が二部屋。元々は新婚カップルやルームシェア用に作られた仕様だそうだ。 社会人の姉ちゃんと家賃を折半しなければとても住めなかった、好条件の物件だった。

さて、どうしようか。

体調はまだ万全では無くて、軽い目眩すら残っている。 ふと、アパートの一階にテナントとして入っている飲食店が目についた。

エントランスのすぐ隣、大通りに面したガラス張りの店。 カフェなのかバーなのかは解らないが、時間を潰せるかもしれないと思いたって近づいた。

「やってる......のかな?」

中央に配置されたオープンキッチンと、店主と気軽に話せるハイカウンターの席。壁際には テーブル席も用意されていた。小洒落た店構えに俺はたじろぐが、ウッド調で統一された家具は、居心地が良さそうだとも思う。

「いらっしゃいませ!」
「うわあっ」

じっとガラス越しに店内を見つめていた俺は、突然開いたドアと女性の元気な声に悲鳴を上 げてしまった。 声をかけてきた女性は七部丈のトレーナーにスキニーパンツ、黒いエプロンを纏っている。

赤みがかった長い茶髪は後ろで一つにまとめられている。妙にエスニックな濃い顔つきをし ている美人の店員は、パチパチと瞬きをしたかと思えば、口を押さえて笑う。

「あらごめんなさい、びっくりさせちゃったわね。どうぞ入って」

ハスキーな声に誘われるようにして、彼女の後に続いた。

席に案内された後、このカフェの店主を名乗る女性のペースに乗せられて、俺はひたすらに 気まずい相槌を打っていた。

「へえ。じゃあ、昨日から東京に来たんだ」

甘ったるい声で、感心される。

「あっ、はい」
「こんな良い物件に住むなんて、お家賃大丈夫なの」
「えっと、姉と二人で折半しているので」
「お姉ちゃんいるんだ!じゃあ次は連れて降りて来てよぉ」

それにしてもなぜこの店主は、客である俺に、堂々とタメ口で話しているのだろう。

「それで、家に入れないってわけね」

店主が同情するように言った。

「あの、ここに長居はしないので安心してください。お客さんに迷惑かけるといけないし」
「いいの、いいの。バータイム前で、お客さんも来ないから」

カウンターの内側で肘を付いたまま、店主はひらひらと片手を振った。 カフェの店主というよりも、キャバクラやクラブみたいな派手な場所が似合う出で立ちだ、 と失礼ながら思ってしまった。

「もう夜の八時よ。夕ご飯は?」
「姉ちゃんが作ってくれた飯が家にあります」

ただし家には入れないので、飯にありつけるのは深夜になりそうだ。

「あら、それなら今日はここで食べて行きなさいよ」
「えっ?でも......」
「安くしてあげるから、任せなさいって」

明るくて美人だけど、この店主が人の話を聞かないと言うことはよくわかった。彼女は俺から少し視線を外して、手を振る。初めは俺に手を振っているのかと思ったが、どうやらガラス窓の向こうにいる人物に笑顔を振りまいているようだった。

「凪(なぎ)、おつかいありがとう!スパイスあった?」

店主の声かけと同時に入ってきたのは、百八十センチもありそうな長身で、黒髪の男だった。 店主に「凪」と呼ばれたそいつが俺の前を横切る。 痩せていて手足もスラリと長い。ひと目見て、モデルかと思った。

「あった。それより、またボードの灯り入れ忘れてるよ。鈴さん」
「あらやだ、本当?」

彼はどうやらここの店員のようだった。洒落たカフェによく似合う外見。額に貼っている湿布のようなものが気になる。彼は怪我をしているみたいだった。 じっと見ていると、目が合う。

「いらっしゃいませ。鈴さんのお友達ですか?」

声をかけられて、俺はびくりと肩を揺らす。 首を横に振った。 「違うわよ、その子とは今日が初対面」と店主が助け舟を出してくれた。

「えっ、初対面?」

店員が驚いたように声を上げた。

「そうよ。......あ、言い忘れてたけど、わたしは鈴蘭(すずらん)ね。よろしく」

そう言って店主は、黒いエプロンの前ポケットから名刺を取り出した。Bar Cafe ハルジオン、と箔押しされた名刺には、確かに鈴蘭と書かれている。 苗字が書いていない名刺なんて、初めて受け取ったので困惑した。

「鈴さんさ、初めての客に全力で絡む癖やめなよ」

彼の溜め息が聞こえるが、鈴蘭さんは 全く反省するそぶりは見せず、むしろ楽しそうだった。 店員はビニール袋をガサガサと探りながら、俺の座っているカウンター席に近づいてくる。

「あれ?お前って......」

薄暗い店内。そいつはぐっと目を細めて、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。 お前こそ初対面でなんなんだ、と言い返してやりたくなった。

「そう言えばこの子、凪と同い年よ。今日から大学生なんだって」

俺たちを無視して、鈴蘭 さんは緑色のガラス瓶を取り出した。それはなんですかと目で訴えると、「サービスのサイダーね」とまた意味のわからないことを、 機嫌良さそうに口走る。

俺は、男の店員にもう一度視線を戻した。この見た目で同い年なんて。悔しいけれど、俺よりもずっと大人っぽいと思った。

「ねえ凪、この子に何か作ってあげて」
「何かって?」
「チャーハンとか、豚キムチとか。適当に冷蔵庫の中身使っちゃってよ」
「鈴さん、カフェで商売する気あるの?」

呆れた声を聞きながら、初対面ではあるものの、こればかりは俺もこの男に同調した。

「あの......本当にいらないです。家で食べるので」

予想外のことが続くからだろうか、やたらに喉が渇く。俺は手渡された瓶入りのサイダーを飲んだ。 りんごの爽やかな風味で美味いのだが、なぜだか喉がじりじりと灼けるように熱い。

「遠慮しなくていいのよ」
「飯作ってくれなんて、頼んでませんから」

この不毛なやり取りにも嫌気がさして、思わず語気の強い言葉が口から飛び出てしまう。鈴蘭さんの表情は変わらないままだったが、反応したのは店員の方だった。

「そんなんだから、ちっこくて細いんじゃねえの。顔色も悪いし」
「......は?」

ぽつりと吐かれたそいつの言葉に、俺は反応する。 聞こえているはずなのに、本人は薄ら笑いを浮かべたまま俺の方を見ない。 神経を逆撫でされるようで、苛立った。

「なんだよ、お前には関係ないだろ」
「何も言ってないけど」
「ちょっと、凪。お客さん怒らせちゃだめよ」と鈴蘭さんが言う。

店員は俺に向き直って、眼光鋭く睨んできやがった。

「こいつから感謝されることはあっても、怒られる筋合いなんてない」
「感謝......?」
「あんなところでぶっ倒れてさ。普段からちゃんと食わないから悪いんだ」

発言の意味がわからず思考停止する俺を差し置いて、鈴蘭さんがアッと声を上げた。

「あら、じゃあこの子なの?あんたが入学式で助けたって言う子」と続けた。 二人の間では話の合点がいっているようだが、俺は取り残されるばかりだ。

何のことなのか、全然解らない。でも、俺が倒れたことを知っていると言うことは、あの入学式にいた人間だ。

「俺、頑張ったんだぜ?嘘だろマジかよってパニクりながら、飛び出してさ」
「それでおでこに派手な傷作ってちゃ、格好つかないわねぇ」
「鈴さんまで俺にそんなこと言うの?」

俺はさっと青ざめる。記憶がフラッシュバックする。式の最中に意識を飛ばした瞬間、誰かに抱きかかえられるような感覚があった。そうでなければ、俺はあの高さの壇上から崩れ落ちて、無事で済むわけがなかったのだ。

「う、うそだろ......?」と俺は恐る恐る聞く。
「本当だよ。懲りたら、ちゃんと飯食って帰れ」

俺を助けた店員は、ぶっきらぼうに言った。

伝えるべき言葉は分かっている。お詫びとお礼だ。それなのに、そんな当たり前のことすら言えない自分が、心底嫌になった。 急に体までフワフワし始める。

キッチンの奥に引っ込んでしまいそうになる凪の腕を、俺はとっさに掴んだ。ほとんど力が入らない自分に驚いた。頰も喉も頭も、全てが熱い。

「ちょっと、何......って熱っ!風邪でも引いてんの?」
「風邪......?」

凪に驚かれて、自分の手が極端に熱を帯びていることに気がついた。

「いや、風邪じゃねえな。鈴さん、こいつに何飲ませたの?」

凪が振り返る。

「何って、ただのサイダーよ」

鈴蘭さんがあっさりと答えた。 凪はカウンターに積まれた緑色の瓶をちらりと見る。そしてひきつった笑いを浮かべた。

「あれはりんごの発泡酒だよ」
「......んん?」
「よく見て。昨日からラベル変わったって言ったじゃん」
「あっ」

鈴蘭さんの短い一言には気づきだとか後悔だとか、色んな感情が混じっていた。

まともに反論するような気力も無く、俺は体が慣れないアルコールに蝕まれていくのをただ 感じ取る。酒を口にするのは、生まれて初めてだった。すぐさまここで横になってしまいたいぐらいだった。

歩けない。気持ち悪さが込み上げる。

「どうしましょ」
「俺に聞かないでよ」
「凪、上の部屋に連れてってあげなさいよ」
「なんで俺が」
「だってこれから私のお客さん来るし」

鈴蘭さんは悪びれもせず、凪に言った。 お願い、だとか、給料プラスでつけとくから、だとか軽い言葉が交わされているのを、俺は やけに遠くで聞いた気がした。

意識が薄れていく。 一日に二度も意識を飛ばすなんて、やっぱりハレの日には程遠いと思った。

どれくらいの時間が経っただろうか。 徐々に覚醒した身体は、確かな違和感を掴み取った。

知らない人の匂いがする。ここはどこだろう。まぶたが重くてなかなか上がらない。頭が割れそうなくらい痛い。

「なんで俺が呼び出されないといけないんだよっ」

誰かの大きな声がする。聞き覚えの無い声。

「だって俺、同い年の酔っ払いの面倒なんて見たこと無いもん」

これはさっきの店員の声だった。

「はあ?」

「なんかあった時、センモンカが居た方が安心かなって」
「専門家って、高校の時に保健委員長だったってだけの俺のことか」
「頼むよ、バ鹿島(かしま)」
「バカって呼ぶな、バカ!」

非常にうるさい。

ベッドのすぐ傍で騒ぐ二人に嫌気が差し、俺は重たい身体を引きずり起こす。凪の他に、もう一人、知らない男が増えていた。そいつは俺を見て「あ、起きた」と短くつぶやく。 眼鏡が外れたままぼやける視界で、一生懸命そいつの顔を認識する。

俺と同い年くらいだけど、目つきが悪くて、ツーブロックに刈り上げた髪の毛がどことなく ヤンキーっぽい。俺は怖気づいた。

「こ、ここは?」

俺は店員に尋ねた。

「俺の家。ちなみにお前の部屋の一つ上の階な」

彼は同じアパートに住んでいたのだ。俺はじんわりと残る頭痛に顔をしかめた。

「体が小さいから軽かったけど、それでも男ひとり担ぐのはさすがに腰が痛かった」

小さい、と言われて俺はカチンとくる。確かに俺と店員とは二十センチ以上身長差があるし、 言い逃れできないくらい小柄だが、他人から身長をいじられる道理は無い。

「......もう帰る」

ベッドから立ち上がろうとすると、ヤンキーみたいな風貌の男が焦ったように「いきなり立 つなって」と制止するが、遅かった。

フッと一瞬、目の前が真っ暗になる。身体がぐらつく。 顔面から床に落ちると思ったその時、無様な俺を抱きとめたのは店員だった。

「人ん家で怪我するのやめろよな」

まさか大学生にもなって、男の腕の中に飛び込む日がやってくるとは思わなかった。俺はハッとして、彼の胸を思い切り押し返す。

「フラフラじゃん。下まで送ろっか?」

意外にも吐き出されたのは優しい言葉で、俺は息を飲 んだ。感情も行動も読めない男だ。

「いい。もう一人で歩ける」

置いてあった眼鏡とカバンを乱暴に掴み、俺は部屋を出る。 一応引き止められたが、恥ずかしさと情けなさで、とてもまともに受け答えできない。

そう言えば入学式でのお礼を言いそびれたという一抹の後悔と、こんなことがあってはもう 二度と関わってはくれないだろうなという諦めの感情が、泡のように浮かんでは消えていく。

迷惑をかけた上、お礼さえまともに言えない。 だから俺はずっと一人ぼっちなんだろうな。自業自得だ。

もう、何もかもが嫌になった。